Héritage L.Vuitton

①ルイ・ヴィトンの誕生

19世紀初頭のフランスは、大きな変革の時代を迎えていた。フランス革命の混乱を経て、1799年にナポレオン・ボナパルトが第一統領として権力を掌握し、その後1804年に皇帝となった。彼の治世のもと、フランスはヨーロッパ全土を巻き込む戦争に突入し、一時は広大な版図を誇った。しかし、1812年のロシア遠征の失敗を機に戦局は悪化し、1814年にはナポレオンは退位、エルバ島へ追放された。

セントヘレナ島のナポレオン
Napoleon's Exile on Saint Helena by Franz Josef Sandman (1820)

1815年、ナポレオンはエルバ島を脱出し「百日天下」を経て再び政権を握るものの、ワーテルローの戦いで最終的に敗北。彼はセントヘレナ島へ流刑となり、1821年にこの世を去った。フランスではブルボン朝が復活し、ルイ18世が王座に就いたものの、貴族と自由主義者の間で緊張が続いていた。

日本では江戸時代後期のこの1821年(文政4年)は11代将軍家斉(いえなり)の時代で、伊能忠敬らによる「大日本沿海輿地全図」が完成している。

埋め込み用のHTMLを取得することができませんでした:

フランス・ジュラ地方(中央の点線で示す地域)

「ヴィトン(Vuitton)」という姓はフランス国内でも珍しく、特にジュラ地方やブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏において見られるものであった。この家系もまた、長年にわたりこの地域に根付いていたと考えられる。

1930年代から1940年代にかけて行われた系図研究によれば、ヴィトン家がフランス・ジュラ地方に初めて定住したのは17世紀のこととされる。その祖であるピエール・ヴィトンは、1697年にラヴァン=シュル=ヴァルーズの南に位置する小さな町、トリニャで誕生した。彼は1750年、ラヴァン=シュル=ヴァルーズ村の郊外にあるアンシェの工場に住まいを構えた。その後、この工場は息子へと受け継がれ、さらに孫のフランソワ・ザビエ・ヴィトンへと引き継がれた。

ジュラ地方は、森林が広がり、水路が縦横に巡る地形を持つ地域であるため、この豊かな自然環境を活かし、水力を利用した木材の伐採が行われていた。そのため、多くの製粉所が建設され、それらは風力や水力で稼働していた。夏の間は小麦を挽き、冬になると木の伐採を行うなど、季節ごとに用途を変えながら稼働していた。

フランソワ・ザビエ・ヴィトンは、後にマリー・コロネ・ガイヤールと結婚した。彼女の両親もまた、アンシェから約10キロ離れたヴーグランの町で製粉所を経営し、その伝統を受け継いでいた。

ジュラ地方の風景
"Paysage du Jura" by Ylliab Photo is licensed under CC BY 2.0.

1821

ヨーロッパの時代の転換点にあたる1821年の8月4日、この小さな村アンシェで、フランソワ・ザビエ・ヴィトンの4番目の子供として、マリー・コロネ・ガイヤールとの間に一人の少年が生を受けた。同じ年、かつてヨーロッパを席巻したナポレオン・ボナパルトが遠くセントヘレナ島でこの世を去っている。フランスが新たな時代へと移行する中、この少年の人生もまた、大きな旅へと動き出していた。彼の名は、ルイ・ヴィトン。

父フランソワ・ザビエ・ヴィトンと、裁縫師でもあった母マリー・コロネ・ガイヤールのもと、質素ながらも手仕事に囲まれた家庭で育った。しかし、彼が10歳の時に母マリー・コロネ・ガイヤールを亡くし、家庭の状況はさらに厳しくなった。幼い頃から労働の大切さを学びながらも、彼はより広い世界への憧れを抱いていた。


埋め込み用のHTMLを取得することができませんでした:

現在のアンシェ村付近の様子

14歳で家を離れ、遥か420キロ先のパリを目指した彼の旅こそ、今日のラグジュアリーブランド「ルイ・ヴィトン」の歴史の始まりだった。













    

STORY

  • ルイ・ヴィトン200年の物語
  • Héritage(エリタージュ)LV

このコラムについて

この、Héritage(エリタージュ)L.Vuittonのコラムでは、14歳で故郷を旅立った少年、ルイ・ヴィトンの夢が世界を魅了するまでの、200年のストーリーをたどります。

TOP